新説・日本書紀㉙ 福永晋三と往く
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2019年(平成31年)3月16日 土曜日
7世紀中ごろの倭国本朝
日出処天子の薨去後、筑紫君薩夜麻(薩野馬)が跡を継いだようだ。父に倣って隋・唐とは国交断絶のままであった。 643年、前年に即位した百済の義慈王が新羅に大打撃を与えた。翌年、仇敵の高句麗と和睦し、協同して新羅を侵攻し続けた。新羅王は唐への援軍要請を続け、唐は645年ごろ、高句麗に対し積極策に転じた。同年、倭国東朝の蘇我氏が滅びると、倭国本朝が百済を支援したようだ。 唐は高句麗への遠征を繰り返した。657年、朝鮮半島の情勢を察知した薩夜麻は、父の築いた「寧楽京(大宰府)」を唐・新羅から防御するため、南北の水城を含め全長51㌔に及ぶ「羅城」を築いた。 660年、ついに唐・新羅連合軍は百済に侵攻し、百済の義慈王は降展、百済が滅亡した。この時に薩夜麻も唐の捕虜となったようだ。倭国本朝の天皇は百済復興を画し、百済の王子扶余豊章を帰国させ、救援軍を派遣した。663年の白村江(白馬江)の戦いに400艘の「御笠軍団」(太宰府市から銅印が出土)を派兵するが、焼かれて全滅した。 7世紀中ごろの倭国東朝
乙巳の変後、6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子に皇位を譲る。7月に即位した孝徳天皇は大化元(645)年と改元し、翌2年正月に「改新之詔」を発布した。いわゆる「大化の改新」だ。この詔は、公地公民制や班田収授の法を基軸としたものだが、当時の行政区画の「評」でなく、書紀に「郡」と記されているため、改新之詔全体が後世の偽作と疑われている。 が、中大兄は大化の改新に協力しながらも、諸豪族の恨みが増すと、それを孝徳天皇に転嫁し、自らは白雉4(653)年に、臣下の大半を引き連れて倭飛鳥河辺行宮(香春町阿曽隈社か)に遷った。孝徳天皇は気を落とし、翌年、病気になって崩御した。 655年、中大兄が即位、天智天皇である。天智は百済との国交を絶ち、すでに白雉4、5年に遣唐使を派遣、唐・新羅と密約を交わしていた。斉明・天智紀にいう「二元外交(唐・新羅と百済・高句麗との外交」はなかったと考えられる。 書紀と八剱神社とに共通する。書紀は、同年正月に天智天皇が即位したとする。前年、筑紫君薩夜麻が暦の捕虜となった。
同年、糸田町の金村権現に残された台板(12世紀)の拓本に「天智天皇7年秋8月、右大臣金連公によって(同町泌泉が)造営された」とあり、書紀にいう「須弥山と漏刻(水時計)」が造営されたようだ。 次回は30日に掲載予定です
新羅慶州の瞻星台(須弥山説有り)と糸田町の泌泉を合成したコラージュ(筆者と大北卓二氏による共同作成)。隣の四角の池が漏刻跡と考えられる 上宮聖徳皇または法王大王(日出処天子)は、法興6(596)年に「伊予の新北津(鞍手町)の石湯(宮若市千石キャンプ場にあった温泉)」に高麗の僧慧慈らとともに湯浴みに来たと「風土記逸文」にある。この石湯は天武13(685)年10月14日の白鳳地震(南海トラフ大地震)により「伊予の温泉、埋もれて出でず」となる。決して、通説に云う道後温泉ではない。